子供を見ているだけでは評価していることにならない
目の前にいる子供が学んだことを評価するのであって、単元を最終的にまとめて評定する必要はあまりないと思われます。
資質・能力がどの程度身に付いたのかという単元ごとの評定は、シンプルにして、大括りな内容のまとまりごとに行う評価が評定と考えるべきでしょう。「そんなに1時間にたくさんの評価なんてできないよ。」という指導者は、評価と評定が、ごっちゃになっているだけです。
一方、子供の学びを評価するのには、指導者自身の指導の改善につなげるという大きな役割があります。指導の手立てを打ってみても、クラスの多くの子供が身に付いていない状況だったりすることがあります。そのように子供たちの評価がなされたとき、そこから当初に考えていた指導の手立ての改善を図ることになるからです。そこには、当初、指導者が考えた指導の手立てが子供たちの学びと乖離していたことが浮き彫りになります。
子供のための評価でなく単なる記録を取っているだけの評価にすぎない場合も見受けられます。子供の学習の様子を見てはいるけれど、見ているだけで見取っていない場合です。あとになってからトータルで考えると「〇〇さんは、こうなっていたんだよ。」「だからこんどから、こうするといいよね」と言われても、時すでに遅しで、子供としてもいつの何のことやら実感が湧きませんから、自らの学びの調整などできようはずがありません。
学びは、その時その時の子供の状況なので、その時に評価されず、最後にまとめて評定されても、どうしたらいいのか具体的でないので分からない、どうにもならないことなのです。