秀吉軍の集団としての体力は、現代人を越えるか
明智光秀による本能寺の変により織田信長が自害に追い込まれたのは、天正2年6月2日の早朝。織田家筆頭家臣の一人であった光秀は、謀反により天下人となりました。
しかし、光秀の最大の誤算は、毛利攻めをしていた羽柴秀吉が、主君信長の訃報に接するや、その仇を討つべく驚異的なスピードで京都に戻って来てしまったことです。秀吉は、同5日には備前・高松城を出て、同13日朝には山崎の戦いで光秀に勝利します。「明智の三日天下」です。
秀吉軍2万の兵士は、岡山から京都までの約220kmをほぼ8日間で踏破しました。1日30km弱の計算です。
シドニー五輪で日本女子陸上競技初の金メダルを獲ったQちゃんこと高橋尚子選手は、標高3,500mのコロラド合宿で小出監督から24kmの山道を全力で駆け上がるトレーニングを課せられていました。秀吉軍の兵士は、それ以上の距離を毎日毎日、ほぼ8日間に渡って走り続けたのでしょうか。
秀吉の時代、Qちゃんがスイスイ走るのとは、わけが違います。なにしろ、秀吉軍2万人が街道としてまだ整備されていない細い山道をいっぺんに走るのです。
しかも、Qちゃんは、手ぶらですが、兵士たちは、武器を持ち、立ち寄る先々に褒美を取らせて手に入れる握り飯や味噌、塩などの食料、川を渡るたびに汲んだ水など、大きな荷物を背負っていました。7000頭の馬も連れています。2万人が泊まれる所はなく、ほぼ野宿。梅雨時期の6月のため、雨に当たりながらの仮眠が続く8日間ですが、山崎に到着したとたんに光秀軍と戦いが始まります。
これが史実ならば、想像を絶する体力です。