大人に「できなかった」とは、言わせない子供の思考
遊びを楽しんでいる幼少期の子供は、「できなさそう」だと認知できている動きには、敢えて取り組まないようにするという”作戦”に出ます。1・2年生の学習内容が「運動遊び」になっているのは、このことと深い関係があります。
友達と一緒に遊んでいるとき、「〇〇君は、あんな高いところからジャンプして飛び降りてるけど、ぼくには、あそこからじゃ無理そうだから、ちょっと低めのところからにしておこう。」などと、自分が持っている能力を認識したうえで、動きを選ぶようにして遊んでいるのです。自分が「できそうな気がする」と判断して選んだ場所からのジャンプになるため、当然「できなかった」という結果を最初から想定していません。
「できなさそう」な高さところを選ばないのと同時に「できる」と分かっている高さところも選びません。「簡単すぎる高さところからのジャンプでは、いつでも『できる』状態にあるのだから、それほど面白くない。」ということも分かっています。そのため、「ギリギリこの高さならできるかもしれない。」と考えたところを自己決定してからジャンプに挑むのです。つまり、幼少期の子供が遊ぶときには、自分が挑戦する動きをやったら「できなかった」という現象が、極力発生しないようにしているとも言えます。
同時にこのことは、遊んでいるときの子供の思考回路が、「できなかった」に至らないようになっているとも言えるのです。飛び降りたときにけがをしてしまった場合など「できなかった」と感じることがありますが、それは、大人が「けがをしたんだから、だめな遊びだ!」と安全面からのみジャッジし、その動きを「できなかった」遊びと価値付けてしまうからです。
しかし、彼らは「けがをしたことはまずかったが、遊んでいた自分としては、それほどでもない。」と考えています。自己中心的な見方が強い彼らにとって、「あの動きが『できなかった』ということは、たいして重要なことではない。」とチャラにできます。遊びとは、そもそもやってみたことをノーカウントにしてもいいのであって、遊んでいるときの彼らの辞書には、「できなかった」という言葉がそもそも載っていないと思えます。
「できなかった」という判断は、周りにいる大人が「しりもちをついたから、アウト!」、「〇〇君のより低いところからやっているので、能力が低い。」などの指導観に基づいて遊んでいる子供を評価しているからです。遊んでいる子供が「できた」と有能感を得ていても、それを見ていた大人が大人目線で「できなかった」と評価してしまうことで、遊びを通して自己概念を形成すべきこの時期に悪い影響を与えてしまうことになります。着地でバランスが崩れても、しりもちをついても、それは、彼らにとっては、「できなかった」にならず、「完璧ではないが、95点!」と自己評価し、次回の遊びに生かしていきます。 100点じゃなかったから「できなかった」のではなく、95点だけど「できた」と考えながら遊ぶうちに自己概念を形成するとともに有能感を獲得しているのです。
1・2年生の指導が難しいと感じるのは、このような発達的な特性を抜きにして運動遊びを考えることができないからです。