遊戯三昧
「遊びをせんとや生れけむ、戯れせんとや生れけん 遊ぶ子供の声きけば、我が身さえこそ動がるれ」
平安時代末期に編まれた梁塵秘抄にある歌です。遊び戯れる子供の声の可憐さに、その愛おしさに、大人である自分の身体も一緒に動いてしまう、そんな気持ちに駆り立てられた歌です。
遊びをしようとしてこの世に生まれてきたのだろうかという問いかけには、人間が何のために生まれてきたのか分からない純粋な疑問と、いやそうじゃないはずだという複雑な反語とが、微妙に混ざっています。目の前で遊んでいる子供の声を聞くと、なおその思いが深く胸を去来します。
大人は、自分が子供の頃に夢中で無心に遊んでいたそのわけを、すっかり忘れているようです。 大人は、運動遊びをさせているつもりでも、子供が心から夢中になって遊べていない限り、それは子供から見ると主体的な運動遊びの学びにはなっていません。
運動遊びの中で「もっとこんなふうにしてみたい」という欲求は創意工夫を生み、それがより高い知識や技能を育んでいきます。体を動かしながら遊ぶことで土踏まずや体幹が発達したりすることによって、脳機能の発達や微細運動の発達にもつながることを世の中の大人が理解している必要があります。
テレビゲームから発展したe-sportsは、バーチャルな中でサッカー遊びを楽しむことができます。しかし、自分の体の力の入れ具合と目から入る画像、脳で感じる平衡感覚などイリンクス(眩暈)がことごとく一致しないので、神経系が未発達な子供には、多くの時間を費やしてまでさせてはなりません。
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