「工夫してごらん」に触発されるとんでもない工夫
1・2年生に、安易に「動きを工夫してごらん」と言ってしまうと、とんでもない工夫があちこちで発生してしまうので注意が必要です。「あなたは、いったい、何がしたいの?」と思うような動きまで、全てが工夫になってしまうからです。自己本位であることを得意としている彼らは、自分がやっている動きは全てがOKで、その点で一人一人がスーパースターになりきってしまっているのです。
このスーパースターたちは、自分にできそうもない無理な動きにはチャレンジせず、自分がギリギリ楽しめる動きしかやりません。簡単すぎることも、できそうもないことも、どちらもつまらないからです。スーパースターでも「うまくできないな~。」と感じることは、イヤなのです。しかし、「できなかった」としても、チャレンジすることそのものにも楽しみを見出してしまう、それがスーパースターとしての強みでもあります。
スーパースターたちは、ときどき、周りの大人が「すごい工夫」と感心するような動きをすることもあります。しかし、大人が感じた「すごい工夫」をクラスの前で紹介しても、スーパースターたちの世界では、わりと普通に映ります。「へえ、楽しそうだな~。」と感じることもあっても、それを自分の動きに取り入れるかどうかは別問題だからです。「はい、拍手~。」と指導者に促されることもあって拍手をしますが、一人一人にやりたい動きがあるときは、内心はそっちのけだからです。
「すごい工夫」だけを紹介してしまう授業では、「すごい工夫をすれば、先生に認めてもらえるぞ。」と子供たちが忖度するようになります。指導者も、「〇〇さんの動きは、すごいから、ぜひ、みんなに紹介しなくっちゃ。」と張り切ってしまいます。「ほ~ら、〇〇さん、すごいでしょ? どう、みんな?」との問いかけに対して、クラス全員に「うん! すごいっ!」とでも言ってほしいかのようです。
残念ながらこの指導は、指導者が意図しない潜在的なカリキュラムとなります。そのため、よい動きという概念ではなく「すごい工夫」をすることだけがいいことで、それを楽しむという学びに子供たちは陥っていきます。そうなると、とんでもない「すごい工夫」がいっそう蔓延していくような授業になってしまいますが、潜在的なカリキュラムなので指導者本人は、授業がそうなってしまった原因が自分にあると気付きません。
一方で「すごい工夫」をいつまでも編み出せない子供は、トホホな状態となってしまい、1・2年生のうちから体育が嫌いになっていきます。「あれなら自分にもできそうだ。」「ああいうやり方もあるんだな。」と気付くくらいの少しの工夫を見付け出して紹介できる、指導者の力量が問われます。