「主体的・対話的で深い学び」の実現
平成28年12月の中央教育審議会答申には、「『主体的・対話的で深い学び』の実現」について触れられています。それによると、「主体的・対話的で深い学び」の実現とは、子供たちに求められる資質・能力を育むために必要な学びの在り方を絶え間なく考え、授業の工夫・改善を重ねていくことと読み取れます。
この答申ではっきりしていることは、「主体的・対話的で深い学び」とは、教師の行動ではなく、子供の学びの質がどうであるかを指しているということです。教師は、何をするかというと、「『実現』するために授業の工夫・改善を重ねていくこと」であることが分かります。「主体的・対話的で深い学び」は、教師による教授行為ではなく、また、子供が身に付ける能力でもありません。
さて、これを形式的に解釈したとき、教師による一斉指導ではなくて子供たちが自力解決する時間を授業中に設けることが、イコール主体的な学びが実現したと言えるような気がしてしまいます。合わせて、「グループで5分間、話し合ってみてください。」と視点を示したうえで対話できるように計画することが、イコール対話的な学びが実現したと思えるような気になります。授業の最後に自己の学習課題解決の実現度を自己評価できる振り返りの時間を確保することで、イコール深い学びが実現したと考えたくなります。そうすると、「導入のあとを主体的な学びの時間にして、その後、対話的な学びの時間をとって、最後に深い学びの時間にしよう。」などととんちんかんなことを記載するような学習指導案になってしまうのです。
これらの教師行動は、主体的・対話的で深い学びを3つの学びに分類して、それぞれの活動の時間をどう割り振るかを工夫しているだけであって、子供たちの「主体的・対話的で深い学び」が実現しているかどうかは別問題です。話し合いの時間が足らなくなりそうだったら、「もう時間なんだけど、みんな、もう少し話し合いの時間が欲しいですか。じゃ、あと5分延長しましょう。」などと改善することもできるので、このことをもって「いろいろと授業の在り方を工夫・改善したので、子供たちに『主体的・対話的で深い学び』が実現できた。」と結論付けてしまうという、誠に残念な授業改善が図られてしまいます。
子供たちが「どのように学ぶか」という学びの質を重視した授業改善を図っていくことが、すなわち「主体的・対話的で深い学び」の実現です。形式的に対話型の活動を取り入れた授業にとどまるものではなく、どのような資質・能力を育むかという観点から、学びの在り方そのものの問い直しを目指しています。