「まねる」は、「まなぶ」の語源か?
「まねる」は、「まなぶ」と同じ語源と言われています。まねしたいと思ってやってみるのは、学びの基本なのです。そもそも人は、「まねる」ことが好きな動物で、ある時は正義の味方になったり、またある時は有名選手のつもりでプレーしたりします。
まねしたくなるような動きを子供たちに提示できれば、「よい動き」が自然と身に付くかのように思えます。そのため、授業の真ん中あたりにクラス全員を集めて「ほら、〇〇さんの動き、すごいでしょ。」と共有する時間を設けたりします。「全員が経験してほしい。」という願望が、指導者にあるからです。
しかし、実際は、そう簡単にはいきません。子供は、まねしたくなる条件が整わないと、まねしないのです。指導者が意図して共有化しようとした動きについて、クラスの全員が「あ! やってみたいっ!」とまねしたくなるかどうかは、別問題ということです。
共有化の時間に動きを見ただけで「あれは、自分がやろうとしている動きと似ているかもしれない。」と感じることができれば、実際に「まねる」ことで運動の行い方が分かる可能性はあります。しかし、「まねる」ことは、自己の課題解決のための手段の一つでしかありません。
子供は、分からないときに友達の動きを盗んで「まねをしてやろう。」と企んでいます。運動学習では、カンニングしても叱られないどころかむしろ推奨されるからです。誰が、どんな動きをしているかチラッと盗み見て、「あれならいけそうだ。」とか「ああいう動き方があるんだな。」と常に考えています。子供の学びは、自分だけで動きを工夫するにも限度があり、いつしか飽和状態となりますが、友達の動きを盗みながら学習を続けられる力は、主体的な学びの表れと言えます。
「まねる」ことを必要としていない子供は、自分のやりたい課題が明確でありそれに挑戦しようとしている可能性が考えられます。そのため、指導者から一方的に見せられた動きを「まねる」ことに時間を割くこと自体がもったいないと思っています。「〇〇さんの動きをみんなもやってみましょう。」と言われて例えまねしたとしても適当に済ませて、自分のやりたい動きにすぐ戻ってしまいます。
指導者が「よい動き」を全員に経験させようとして「まねしてみましょう。」と言えば、自己の課題を見いだせていない子供や自己の課題解決に役に立ちそうだと判断できた子供は、とりあえずまねしてみることもあるでしょう。しかし、自己の学習課題が明確になっていて課題解決に向けて主体的な学びができている子供ほど、まねしません。なぜまねしているのか、なぜまねしていないのかを指導者は適切に見極めなければなりません。