人は、なぜ、踊りたくなってしまうのか?
「人は、なぜ、踊るのか?」。それを明らかしようとすると、「楽しいから。」「気持ちいいから。」などが思いつきます。では、どうしてそう感じるのでしょう。
人間以外の動物は、「踊る」ことは基本的には嫌いです。「踊る」ことなんて、無駄なエネルギー消費でしかないと知っているのでしょう。ですから、一部の動物のオスが「求愛ダンス」と称してメスの気を引くぐらいしか「踊る」行動を起こしません。
人間だけは、音楽が聞こえたりリズムが刻まれていたりすると体が自然と動きます。幼児ならニコニコしながら手拍子を打とうとします。この動きこそが「踊る」の原点です。幼児の手拍子は、たいてい音楽とはテンポが合っていません。しかし、踊っているつもりの本人は、そんなことお構いなしで、実に楽しそうな表情を見せます。ほかの動物が求愛行動以外に「踊る」ような動きをしないことを考えると、人間独特の楽しみ方なのでしょう。
人間だけが、リズムに乗って「踊る」ことや、何かの「模倣」をして「踊る」という楽しみ方を知っているのです。「模倣」をして「踊る」ことには、神々の動きを「模倣」することも関係している場合もあるくらいで、宗教的な要素もはらんでいます。
人間がまだ言語を持たなかった時代、何かの動きを「模倣」することによってある動作が同じものを指す動作として共有しました。言葉では伝えられないものを体全体で伝える「模倣」のスタイルは様々あったことでしょう。「模倣」によってのみ行われていた当時のコミュニケーションが、その何万年かのちに言語として発声されるようになったのではないかと考えられます。
幼児は「模倣」が大好きで、それがヒーローごっこだったり、お母さんごっこだったりします。積み木を電車に見立てられるのも、「ガオ~ッ!」とわめきながらライオンのまねをするのも、まねごとをする「模倣」が、そもそも好きだからです。ロジェ・カイヨワも著書「遊びと人間」の中で、遊びの分類の中の一つにミミクリー(Mimicry)があると言っています。架空の世界を一時的に受け入れて楽しんでいる状態です。
「人は、なぜ踊るのか」。言葉では伝えられないものを「模倣」によって伝えるためか、リズムの共有による感情の共有が心地よいためか。さて、どうでしょう。