主体的な学びを阻害していることに気付かない指導者の子供観
5歳児は、登園すると「今日、何して遊ぶか、どんなふうに遊ぶか」決まっています。だから、さっさとカバンを自分のロッカーに入れて、遊びに向かっていきます。
たいていは「きのうの続き」をやりたいので、ある程度の段取りまではスイスイと進んでいきます。昨日の状況に近付くと、新しい道具を持ってくる、近くの友達を引っ張り込む、遊び方そのものにも工夫が加えられていきます。
園児たちにとっては、遊びそのものが学びであるという考え方だからですが、一方で小学校は遊びの時間と勉強の時間を区切っています。
そこで小学校の先生は、勉強の時間になったら「手はお膝、お口チャック」から始めようとしていることが多くなるのでしょう。体育の時間では、始まる前に並んで座っている子供が「おりこうさん」という扱いになるので、子供は運動したくてウズウズしていても我慢を強いられています。
園児は、シャベルがどこにあるか知っていて勝手に出して遊び、使い終わったら片付けるのは、言われなくてもやります。学校に入った途端「はい、シャベルを使いたい人は、ここにあるから取りにいらっしゃい」となります。
資質・能力を基盤としたコンピテンシー学力論は、すべての子供は有能な学び手であることが前提です。そのため、適切な環境との出会いがあれば、自ら学んでいくことができるという考え方に立っています。
今や指導者にはある意味での「子離れ」を求められており、「もともと子供は、主体的に学ぶ力を兼ね備えている」という子供観に立てるかどうかが課題となります。そうでなければ、善かれと思って子供にあれこれとサービスしてしまうことが、子供の主体的な学びを奪っていることに指導者自身が気付かないからです。