「明日もまた遊ぼう!」と言える遊び環境とは?
室生犀星の「明日」という詩には、「子供にとっての遊び環境とは何か?」を考えさせられます。
明日もまた遊ぼう!
時間を間違えずに来て遊ぼう!
子供たちは夕方になって
さう言って別れた
わたしは遊び場所に行ってみたが
いい草の香もしなければ
楽しそうに見えないところだ
むしろ寒い風が
吹いているくらいだ
それだのにかれらは
明日もまた遊ぼう!
此処へ集まるのだと誓って
別れて行った
室生犀星は、それまで子供が遊んでいた場所に自ら立ち、その場所が大人にとって何の変哲もない、およそ遊ぶに楽しくなさそうなところだったと感じています。
「何が? こんなところがなぜ、面白いのか?」と、子供のときは、おそらく自分もそこにいて無意識に感じていたであろう遊びの風景が、大人になって何も見えなくなることを詩に表した室生犀星。彼に限らず大人の誰もがもつ感覚でしょう。
四段くらいの階段で、友達と声を合わせて「せーのっ!」と言いながら、違う段に同時に移る遊びがありました。友達と同じ段に跳び移ってしまったらダメというきまりがある遊びです。「せーのっ!」のたびにダメになるかどうかハラハラし、ダメになってもがっかりすることなく、むしろ互いにキャッキャと笑い合います。大人から見たら単なる階段であっても、子供から見ると遊び場として映っていた階段は、「また、明日も遊びたい」気持ちを掻き立てられる魅力的な環境となっていたと言えます。